ぼくが“都民”になった日

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一体、これは何なのだ。僕が一体、何をしたというのか。

8月のとある日、僕は脂汗にまみれて部屋の片隅に立ち尽くしていた。

遡ること1時間前。
仕事から帰宅し、いつものようにリビングに荷物を下ろす。まだ電気をつけていない薄暗い部屋に、玄関からの光がほんの少しだけ差し込んでいた。
その時、視界の隅で何かが動いた気がした。そちらを見やると、床には緩衝材のプチプチの切れ端が落ちている。おそらく、ゴミ箱からこぼれ落ちたのだろう。

「なんだ、プチプチか。驚かせるなよ…」

だが、不安は残った。違和感が、胸の奥にくすぶっている。
僕はおもむろに、プチプチの方に向かって息を吹きかけた。その瞬間、大きく黒い影が動いた。

「!!!!」

影は床に放置していたガムテープと壁の間に入り込んだ。

ついに、この時が来たのだ。恐れていた日が。
上京してから十数年、外では何度もヤツに出会った。
道端や居酒屋、ゴミ捨て場、夜のATM内、あらゆる場所で目にしてきたが、自宅で出くわすのは初めてだ…。北海道民はヤツへの耐性がないのだ…。

「マジじゃん…」思わずそんな言葉が口からこぼれ落ちた。
頼む、これはただの悪夢であってくれ。目が覚めて、平和な日常に戻ってくれ。
しかし、現実は無慈悲だ。ガムテープの後ろから、長い触角がゆらゆらと姿を見せている。

落ち着け、落ち着くんだ。
とにかく今からヤツと戦わなくてはいけない。
まずは作戦を考えるのだ。

まず第一にヤツから目を離してはいけない。少し目を離した瞬間にどこかへ移動されるのだけは避けなくてはならない。一瞬の油断が命取りだ。

そしてヤツの移動経路を限定しなくてはいけない。無数の逃げ場・隠れ家だらけの現状を打破するのだ。僕はリビングから玄関への扉以外のすべての扉を閉めた。もちろん視線はヤツから離さずに。
ヤツはまだ動かないが、ガムテープの奥から触覚だけが不気味に揺れている。

そして次だ。ここからが本番だ。
我が家にはアースジェットなるものを常備していた。
しかし、無闇に噴射すればパニックになったヤツが予測不能な方向へ走り出す可能性がある。
しかも、このスプレーはヤツを即座に仕留めるほどの威力はないだろう。万が一、どこかに逃げ込まれてしまえば、夜も眠れない。

だから、あのガムテープをどかしてヤツを玄関方向へと誘導し、玄関の外へ追い出すのだ。もしくは、隠れる場所の無い玄関で確実に仕留めるのだ。一騎打ちだ。
ヤツのスピード、敏捷性は知っているつもりだ。途中で冷蔵庫の裏などに逃げ込まれることも十分に考えられる。
ヤツが逃げ込まないようできる限り隙間のない方向へ誘導しなくてはならない。
僕は少し長めに畳んだ段ボールを手に取った。
今はコイツだけが頼りだ。まるでエクスカリバーのように思えた。
まずはこれでガムテープをツンツンするのだ。

……ツン。

突然、ヤツがガムテープの裏から猛ダッシュで飛び出した!プラゴミを入れたゴミ袋の下へ潜り込む!
なんというスピードだ。超キモい!超キモいぞ!!
人類のDNA深部に刻まれた、ヤツへの嫌悪感!全身が脂汗でべったりだ。
勇気を振り絞り、ゴミ袋を再びツンツン。

ゴミ袋の下からいつ飛び出してくるかわからぬ恐怖。全身脂汗だらけだ。
意を決し、ゴミ袋をツンツン…。

ダダーーーーー!!

ヤツは玄関への扉の隙間へと入り込んだ!
よし!まずは玄関の廊下へと追い込めそうだぞ!!

急いで玄関の廊下を覗く。そこに広がっていた光景はなんと…

ヤツは着地に失敗して裏返ってもがいていた。
しかも自力で元に戻れないらしい。なんとマヌケなことか。

「勝ったな…」
そこに碇ゲンドウがいればそう声をかけていただろう。

すまないな、敷金礼金も払わないようなヤツとは一緒に住めんのだよ。
僕はアースジェットのトリガーを引き、戦いに終止符を打った。

こうして、激闘の幕が下りたのである。

翌日、ドラッグストアで殺虫剤や予防グッズを購入し、徹底的な対策を施した。
何故か、Spotifyで「アルマゲドン」のテーマ曲「I Don’t Want to Miss a Thing」を聴いていた。

会計時、レジのお姉さんの「察し顔」を僕は忘れない。

あれから1ヶ月。ヤツの姿は見ていない。1匹見たら100匹いるなどと言われるが、今回はどうやら単体だったようだ。

上京して十数年、僕はやっと本当の意味で都民になれたのかもしれない。
あれは都民になるための通過儀礼だったに違いない。

だがしかし、あんな思いは二度とごめんだ。
ごめんなのだ…。

フライフィッシング全然関係なくてすみません。

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